マサキのブログ
HOLGA
先日、HOLGAというカメラを買った。本体価格は5000円で、わたしが今使ってるカメラの100分の1の価格である。わたしはカメラという機材に、ずっと絶望感を抱き続けていたのだが、このHOLGAは予想を大きく覆す、素晴らしいカメラであった。まだ一枚も写していないが、わたしは自信を持って断言できる。HOLGAほど素晴らしいカメラはないと。
どうして一枚も写していないのに、素晴らしいカメラと断言できるのか論証しよう。
わたしは自分の作品(※1)から、カメラの欠点を指摘することをなにより得意とする。具体例を挙げれば、「カメラの連写速度が低いせいで失敗した」とか「カメラの低感度が100までしか設定できないから、露出オーバーで失敗した」とか「記憶媒体が入っていないと警告するブザー機能がついていなかったから、記憶媒体を入れ忘れた」などがそうである。
いまわたしが愛用しているカメラは、「いおすわんでぃまーくすりー」という憎たらしいカメラなのであるが、このカメラはじつに傲慢で、わたしの得意分野である”カメラの欠点を指摘する”隙”をなかなか与えてくれない。カタログをみても、その傲慢さが伺える。少々長くなるが引用しよう。
『新たな使命へ。−高画質と機動性の追求。新しい映像文化の開拓。「1D」の哲学は普遍です。その哲学を継承し、さらに発展させるため、キャノンは一台のカメラを生み出しました。約1010万画素の解像感と、従来をはるかに凌ぐ16.384階調の表現力。新たな世界を開く約10コマ/秒の高速連写。さらに次世代のワークフローへの対応を目指して、撮影機能、操作性、信頼性、システムアクセサリーまでが、たゆまぬ努力によって開発されています。すべては、プロの要求を満たすために。フラッグシップ機の使命を追及し、全身を進化させた、それがEOS1D
MARK3』
非常に難解な文章であるが、要約するとこうだ。
@このカメラを使って下手な写真をとる人間は、ただたんに、腕が悪いだけである。
Aこのカメラを使うべきなのはプロであり、一介のアマチュア、特に腕に覚えのないアマチュアはカメラの権威を下げるので使うべきではない。
Bこのカメラを買う奴は、よほどこのカメラを必要としているか、ただの成金のあほかのどちらかである。
ここまで侮辱され、拒まれ、わたしにとって都合の悪い真実を突いているにも関わらず、わたしはこのコピーを読んで感銘し、衝動買いしてしまった。おそらく、そのとき意識が覚醒していなかったのだろう。眠っていたのかも知れない。
そこで、HOLGAである。わたしは取扱説明書(以下取説)を読みぬく能力がないので、あまり取説はよまないのであるが、めずらしくHOLGAに関しては使用前に取説を読んだ。読まないと、ほんとうにカメラかどうかすら、疑わしかったからだ。よく読めば、「取扱説明書」ではなく「攻略ガイド」と書かれていた。
冒頭の一文で、カミナリに打たれたようなショックを受けた。
「この攻略ガイドには通常のカメラの説明書では記載されないような注意事項が多々あります。これは製品自体の不完全さからくるものですが、HOLGAはその不完全さ故に世界中の写真ファンから熱狂的に支持されています。どうぞHOLGAのいたらなさを大目に見ていただき、その不思議な魅力を存分にお楽しみ下さい」
わたしの頬を涙がつたった。わが意を得たりとはこのことである。なんと、謙虚な取説(自称攻略ガイド)であろうか。わたしはこの愛機に、さっそく「すみれ」と命名した。すみれの花言葉は謙虚である。しかも、締めにはこう書かれていた。
「このカメラは、トイカメラの範疇で取り扱われています。修理は不可能とお考え下さい。」
なんと、誠実なカメラであろうか。できないことはできないと明確に書かれている。
このたった二つの文章を読んでも、このカメラの奥ゆかしさ、慎ましさ、謙虚な中にも、誠実さを強く示す、素晴らしさが溢れている。
ゆえに、HOLGAはたとえ一枚も撮っていなくても、素晴らしいカメラと断言できるのだ。
注釈
※1 わたしがうつす写真は、作品である。
※ このブログは大昔に書いていたもので、いまはもっと鼻持ちならない、いおすわんでぃーえっくすという機種を使っている。
いわたやまに行ってきた
わたしに対して高圧的な態度をとるものは、幼児を含む人間をはじめとして、犬、猫、鳥、ハムスター、フェレット、ウサギ、モルモット、フクロウのポポちゃんと枚挙にいとまがないが、猿も決して例外ではない。
しかし、いくらなんでも、生後12日の赤ちゃん猿だったら、そのおそれはないだろう。物事の分別がつくまでに菓子折を持参して誠心誠意お願いし、世界で唯一、わたしが優位に立てる存在をこの世に据えておこう。そう考えて、今日、赤ちゃん猿の生まれたことで話題のモンキーパークいわたやまに行ったのだが、世の中そんなに甘くはなかった。甘くないのは人間界だけだと油断していたが、猿の世界も例外ではなかったのである。
自慢するようだが、わたしは猿に襲われたら、右に出る者はいない。猿に威嚇され、飛びかかられ、爪で引っかかれるのは、日常茶飯事だと言ってもいい。それでもめげずに猿を撮り続けるのは、猿に襲われるのが好きなわけではなく、猿を撮るのが大好きだからである。
猿を撮影しつづけていると、急にとりとめもないことを考えたりもする。猿は言葉を用いずにふつうに生活をしているが、人間は言葉を用いないとふつうに生活をすることができない。これは生物学上、どちらが優れているといえるのであろうか。
たとえばわたしの姉は、わたしに対し、わざわざ言葉を用いて説教をし、わたしを戒める。しかし、猿は単に飛びかかって、わたしを戒める。どちらが合理的かと言えば、後者と言わざるを得ない。前者の場合、原因がよくわからないときが多いが、後者の場合、「ああ、目があったから怒ってるんだな」とか、「ああ、写真を撮りまくってるからキレたんだな」とか、言葉を用いて理解することができる。
今日は、生後12日のグランスくんに威嚇され、飛びかかられ、戒められることによってコミュニケーションをとることができた。グランスくんは、わたしに対して高圧的な態度をとる、ほ乳類としての最年少レコードを見事に樹立した。
このブログをみておられるかたも、ぜひ、いわたやまに出かけ、グランスくんとコミュニケーションをとっていただきたい。なお、不可思議なことに、グランスくんを含むここの猿たちは、わたし以外の人間に対しては、全く高圧的な態度をとらない。だから読者諸兄の皆さんは安心してお越しいただいて結構である。
遅刻
わたしの勤めている愛宕山タクシー(仮名)ほど、厳しい会社はない。先週も、シフトの入っている日の前夜に、「すみません。いまからダイヤモンド富士を撮影しに山中湖へ行くので明日は有給で休ませていただきます」と電話でいうと、「そうか、気をつけていけよ」と厳重注意された。しかもそれだけではない。「一日の休みで行けるんか?」と厳しく指摘されたうえに、「撮影なら一日では足らんやろ。連休にしとけ。」と連休を取らされたのである。なんと厳しい会社であろうか。ふつうの会社ではありえない対応である。
そんな厳しい会社につとめてるせいか、今日も寝坊という不可抗力で3分遅刻した。うちの会社は厳しすぎることに、遅刻は月に2回までしか許されない。3回目以降は罰金が取られるのだ。だから、わたしは、努めて、月に最低2回(最高でも2回)、遅刻するようにしている。2回しなくては、勿体ない気がしてならないのだ。しかし、今日は月の初日、こんなところで遅刻をしていては、これまた勿体ない。言い訳をしなければいけない男気にかられたわたしは、会社に入るなり言った。
「おはようございました!マサキでございます!!JRが遅れて遅刻しました!!不可抗力です!」
しかし、私の家と会社の間にはJRは走っておらず、わたしはバイクで通勤している。そのことを厳しく会社に追求されると、わたしは渋々、主張の方針を転換した。
「まちがえました!ごめんなさい!ホントのこと言います!あかずの踏切があかなくて遅刻しました!!不可抗力です!!」
しかし、私の家と会社の間に踏切はあるにはあるが、とおる電車の本数が1時間に数本程度で、説得力は極めて乏しかった。それだけではない。あろうことか、「あかんのは、踏切やのうて、おまえの目ん玉やろが!」と逆に会社に厳しく糾弾されたのだ。
こうなってしまっては分が悪い。きょうのところは渋々敗北を認めて、素直に”遅刻”を受け入れざるをえない。私は男らしく言った。
「わたしが悪いのではなく、スイッチを入れ忘れただけで鳴らない融通の利かない目覚ましと、起こしてくれない姉と飼い犬のジョンが悪いのですが、結果的に、不幸にして、遅刻という結果になってしまいましたことを、管理者であるわたしが、姉とジョンと目覚まし時計にかわって、遺憾の意を表する次第でございます」と。
ガキんちょどもと、もっとガキんちょなわたし
わたしは常日頃から近づきにくいオーラを発しているため、近所のガキんちょどもに一目置かれている。このあいだも、わたしがただ歩いているだけなのに、「あー!とおるくんがあるいとう!」「ほんまや!とおるくんがあるいとう!あめちゃんやろか?」と指をさされながら声をかけられた。歩くだけで話題になるのはスターあるいは大人物の宿命だが、ただ歩いているだけで驚かれるうえに、飴玉まで献じようかと聞かれる始末である。ここまで恭しく接してこられたら驕慢な態度はとれない。わたしは大人物らしく悠然と答えた。「じゃかましわい!おまえら!ひとを猿みたいにぬかしやがって!歩いとったらどないやっちゅーねん!あめだまなんかいるか!このあほんだら!」
わたしがここまでキッパリと断ったのに、ガキんちょどもはアメ玉を持ってきたうえに、
「とおるくん、あそぼ」と袖を引っ張りながらいう。ほんとは、ただ遊んでほしかっただけなのに、遠回しでわたしに尊敬の念を伝えていたのだ。かわいいやつらである。しょうがないので、遊んでやることにした。
「なにしてあそぶねん?」
「とおるくんの部屋でゲーム」
「おまえら、ちゃんとかたづけろよ」
わたしと遊ぶのではなく、わたしの部屋にあるゲームが目的なのは明白であった。しかし、そんな事実がわかっていても目をつぶってやるのが大人物というものだ。「おまえらかってにせえ」と言い捨て、部屋の一角とゲームを解放し、ガキんちょの好きにさせてやった。わたしは隣の部屋に移り、パソコンで画像を整理しながら、遠目で様子を観察している。
あっちゃんと、けんちゃんと、しんちゃんといったいつものメンバーである。ケンカをしないように隣の部屋で様子をうかがっていたら、非常に問題のある事態に気がついた。あっちゃん→けんちゃん→あっちゃん→けんちゃん→しんちゃん→あっちゃん→けんちゃん→あっちゃん→けんちゃん→あっちゃん→けんちゃん→しんちゃんの順にゲームのコントローラーを握っており、しんちゃんはずいぶん順番を抜かされたりとばされていたのだ。しんちゃんは引っ越ししたてでコミュニケーションがあまり2人と取れていないこともあり、リーダー格のあっちゃんと、要領のいいけんちゃんばかりゲームをしていたのだ。私は隣の部屋に飛んでいって、あっちゃんとけんちゃんのコントローラーをとりあげ、どやしつけようかと思ったが、そんなことをしたら、しんちゃんの立場がますます悪くなり、わたしの知らないところでいじめられるおそれがある。わたしは3人全員を部屋によび、言った。
「おまえら、もううちにゲームしにくんな!なんでわしが怒ってるか、理由はおまえらが考えろ。おれはリフジンなことが大嫌いなんじゃ。理不尽の意味がわからんかったら、おやじに聞け。おまえらが、わしが怒ってる理由がわかって、わしが納得するこたえを持ってきたら、また部屋にいれてやる。それまで来るな。とりあえず、全員帰れ!」
ふだん怒らないわたしが怒ったので、3人は飛び散るように家に帰っていった。
その夜、わたしはしんちゃんの家をそっと訪問した。親御さんが出てきて恐縮するように言った。「すみません・・いつもいつもお邪魔してるうえに、今日はなにかすごく迷惑をかけたみたいで・・この子もずっと落ち込んで・・」わたしはしんちゃんに席を外してもらい、ご両親にことの顛末を全て話し、誠心誠意謝った。「しんちゃんは全く悪くなかった。しかし、こうするほかなかった。ほんとうに申し訳なかったです」と。親御さんは心の広い方で、こちらの意図を全て理解してくださり、逆に感謝までされた。わたしはただ恐縮するほかなかった。
そのあと、すぐにしんちゃんを呼んでもらい、しんちゃんにそっと最新型の携帯ゲーム機とゲーム数本をわたした。目をクリッとさせて驚くしんちゃんにわたしは囁いた。「きょうはごめんな。これ、わし、もうせーへんしあげるわ。あっちゃんとけんちゃんには内緒やで。」親御さんはびっくりして帰そうとしたが、わたしは「いや、わたし、ほんましないんで、ええですわ」と言い残し、そそくさと帰った。
わたしがしんちゃんにゲーム機を渡したことは、正しいことではない。はっきり言って間違っている。それは自分でもよくわかっていた。しかし、わたしは、しんちゃんのような子が最終的に損をする結果に終わらせたくなかったのだ。これはわたしの自己満足であり、或いはエゴなのかもしれない。あとはしんちゃんが、わたしにゲーム機を貰ったとあっちゃんとけんちゃんに言わず、たとえ少々の不条理があっても、3人がいままでどおり仲良くあそぶのを祈るのみだ。ついでに、ほんとうは愛用していたゲーム機をまた買えるように、来週の競馬が当たりますようにと神に祈るのみである。
貨物時刻表
いよいよ待ちに待った、「貨物時刻表・2008年ダイヤ改正特別号」が発売された。わたしのブログをご覧になっている10万人のうち、もしかしたら2・3人は「なにそれ?」と言う人がいらっしゃるかもしれない。そういう推定約0.2〜0.3%の方ににあえて説明するが、「貨物時刻表」は日本貨物協会が発行する、定価2400円の貨物列車の時刻表である。
この貨物時刻表、わたしが年間、最も手に取る機会の多い書物である。少なくともアンケートなどの「あなたの愛読書は?」と書かれた問いには、迷うことなく「貨物時刻表」と書き込んでいる。わたしのブログをご覧になっている100万人のうち、もしかしたら2・3人は「貨物の時刻表なんて何に使うの?」と信じられないことを聞く人もいらっしゃるかもしれない。そういう推定約0.02〜0.03%のひとにあえて説明するが、「貨物時刻表」は、徹頭徹尾鉄道ファンのために作られた、とりわけ機関車ファンのバイブルなのである。これを持って、雄々しき貨物列車を撮影に行くのだ。ちなみに、鉄道貨物運送に携わる流通関係者などは、ほとんど持っていない。そんなものがあるということも、おそらく知らないであろう。
話は変わるが、わたしがまだ真人間であった幼稚園児のころ、はじめて親に買って貰ったプレゼントが、プラレールの貨物列車セットであった。なぜ貨物列車セットかというと、貨物列車はふつうの列車セットに比べて安かったからだ(と推察される)。機関車とコンテナ車とタンク車と車掌車の質素な編成セットであったが、わたしはこのプレゼントに心から感動し、いつまでも寝ころびながら眺め、機関車を前へ後ろへと手で動かしていたものだ。(残念ながら、レールと電池はなかった)
それから月日は30年ほど流れ、わたしは30年ほど月日が止まり、いま貨物列車時刻表を眺めながら、長野県信越北線をはしるEF64の重連を撮影に行こうと計画を立てている。なかなか休みは合わないが、中学時代の同級生で、同じく貨物時刻表を購入している同志と一緒に行けたら最高だ。ブログをご覧になっているみなさんも、是非、一度、線路のそばで、走り抜けている貨物列車(とりわけ機関車)をご覧頂きたい。その勇猛さと迫力に、圧倒されるであろう。そして、貨物列車が通り過ぎたあと、あまりの感動と寂寥感に涙が止まらないはずだ。そうなったら、同志である。いずれ当ホームページ内において、「マサキが名所を案内する貨物列車撮影ツアー」を企画するので、是非みなさん参加していただきたい。
あと併せて、「マサキが主催する貨物列車撮影合コンツアー」も企画している。鉄道ファン、中でも貨物ファンは私が知る限り、心が純粋で根っから優しい人間ばかりである。かつ、人や流行に左右されずに、自分の好きなことをとことん貫く意志の強い人間ばかりだ。わたしも、早くそういう貨物ファンになりたいものである。そういうわけで、この合コンツアーは『掘り出し物』が多い(はずである)。
歯科姉 (前編)
歯科医と思われるおねえさん(以下『歯科姉』と称する※1)は言った。「そんなにこわがらなくても、いたくないですよ」
なぜこの歯科姉は、わたしがこわがっていると見抜いたのか。わたしは一切「こわい」と主張していないし、終始、凛として、男らしい態度をとり続けたはずだ。待合室でも体の震えを隠そうと、全身がけいれんを起こしているフリをしたし、不安で思わず流れ落ちた涙を拭くときは、「ああ今日は花粉症がきついや。たいへんたいへん」とちゃんと聞こえるように、大きな声で主張したはずだ。私が誤解を受けるわけがないし、そもそも怖いというのは誤解ではない。真実である。わたしはあるひとつの推論を立てた。この歯科姉はきっと歯科医が足りなくて、急遽電話で呼びつけられた深層心理学の権威に違いない。いくら深層心理学の権威の先生といえど、いかに美人といえど、専門外の医者にかかるのは論外である。歯石を取ったと同時に、誤ってわたしの歯が綺麗に揃ってしまうおそれがある。そうなれば、わたしの個性がまたひとつ失われるではないか。
私はか細い声で男らしく聞いた。
「ほ・・ほんとうに、いたくないんですか?」
この質問は愚問である。私は質問の答えがはじめからわかっている。2度も歯石取りで死ぬ思いをしてきたのだ。私はこの歯科姉の誠実さ、言い換えれば人間性を試している。
「いたくないですよ。ほら、そんな泣きそうな顔をしないで。だいじょうぶだから。」
最悪の答えが返ってきた。まずこの答えから、次のようなことが推察できる。
@この歯科姉は美人だが、平気で嘘をつく能力を持っている。
Aこの歯科姉は美人だが、人の人格を表情から否定できる能力を持っている。
Bこの歯科姉は美人だが、歯科医としての技術は甚だ疑わしい。
みごとな三段論法だが、なぜ、@Aが正しく、ゆえにBなのかという細かいことはこの際省いておく。
診察台の上の明かりがともった。これほど希望のない光はない。そしてこの世でもっともいやな音をだす機械を歯科姉が手にしたとき、私は耐えきれず、男らしく叫んだ。
「す・・すとっぷ!すとっぷ!タイム!タイム!!」
「どうしたんですか?」
「あ・・あいぽっど!あいぽっどで、音楽を聴きながら治療してもい・・いいですか??アルファー波を奏でる音楽(※2)をヘッドホンで聴きながら治療を受けたいんです!!」
歯科姉は呆れた顔をして言った。
「ダメです。線が邪魔です。あなたの口はもっと邪魔ですが、喉の線を切って治療するわけにはいかないので、いきますよ。では・・」
「わ・・わかりました。iPodの件は妥協しましょう!!では、麻酔をお願いします!できれば錠剤で!ほんとお願いします!こんなにお願いするのは駐車違反の切符を切るミニパトの婦警さんに勘弁してくれと頼んで以来です!(※3)ほら、僕の目をみてください!これが嘘をついている人間の目に見えますか??」
「なにをわけのわからないことを言っているのですか?私はあなたを疑ってなどいません。あなたが私をこわがり、おそれ、逃げだそうとしているのは、疑いの余地がありません。もとより、錠剤の麻酔などありませんし、歯石取りで麻酔を打たれるかたなどいらっしゃいません。。では・・」
なんという女性だ。私に反論の余地を少しも与えなかった。まな板の上の鯉だという自分の置かれている状況については、理解しているつもりだったが、人間窮地に陥ると、わずかな可能性でも求めてしまうものだ。わたしは生き抜くために、プライドまで捨て、最後の最後まで諦めずに、「窮鼠猫を噛む」の思いで痛みから逃れようとしたのに、この歯科姉に一蹴された。もはや私は死ぬしかない。いや死んでいるも同然だ。
・・とそのとき、一時の極限状態を脱したからか、不意に眠気が私を襲い、こともあろうにあくびをしてしまった。隙のない人生を送り続けてきた私だが、いまこの瞬間に限って、人生最大ともいえる隙を見せてしまった。歯科姉がその隙を見逃すはずもなく、すかさず必死で戻ろうとする口をこじ開け、無情にもドリルを口内に突っ込んだ。。
(つづく)
歯科姉(後編)
前回までのあらすじ
男らしいわたしは、歯科で歯石取りを行うという人生最大の修羅場を迎えたにもかかわらず、主治医の歯科姉を一遍の疑いもなく信頼し、終始、毅然とした態度を貫き通した。
いま、歯科姉は、わたしの口内をドリルで荒らしている。痛い。どうしようもない。この苦境から一時も早く逃れたい。
なにゆえわたしがこんな目にあわなければならないのか、どうすればこの状況から脱することができるのか、この修行の後、ふつうにご飯は食べられるのかなど、今わたしが考えるべき問題は山積されているのに、痛みで全く考えられない。地獄とはこのような状況をいうのであろう。
しかも嘆かわしいことに、わたしは今までの人生の経緯と蓄積から、その辻褄を合わせるために、男らしさを貫かなければならない。決して、痛そうな素振りを見せるわけにはいかないのだ。しかし人間の能力には個体差があり、限界もある。わたしは「やめてくれ!たすけてくれ!」という表情を崩さずに表現するのと、体全体を小刻みに震わすことだけは、男の意志を伝えるために譲れなかった。
左前歯が終われば、左奥歯に、さらに右前歯から右奥歯に。この規則的な治療が、わたしの精神をより追い詰める。まだ、左奥歯である。このあと3カ所も残っている。「ひょっとしたら、右奥歯は許してもらえるかもしれない」と思えないところが、わたしが楽観主義者ではなく、自分に厳しい性格だという、なによりの証拠だ。
治療と称する苦行は終わった。やはりわたしの考えていたとおり、この歯科姉は名医であった。舌に穴は開かず、「声が男らしくない」という先天的な要素を省けば、なんの問題もなく会話が行える。わたしの人を見る目は間違いではなかった。
とその時である。わたしの右目から期せずして涙がこぼれ落ちた。しかも歯科姉の目の前でである。男らしさを貫くわたしにとって、人生2度目である隙を見せたというほかなかった。
わたしは慌ててフォローした。
「これは痛くて出た涙じゃないんですよ!やり終えた後の充実感で出た涙なんです!男泣きです!!」
歯科姉は笑っていた。なぜ笑われたのか、いまだに見当がつかない。
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